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2013-12-16

近代以降、永遠に繰り返されるであろうテーマ。

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 ついに『八重の桜』が最終回を迎えた。
 拙ブログではとびとびに感想を書いて来た。初回で、八重の台詞「ならぬことはならぬのです」から、幕末・維新期の人間にとって最後まで「ならぬもの」とはなんだったかを軸に感想を書いていきたいとのべたのだが、覚えていらっしゃる方はいるのだろうか。嗚呼。
 んで、ここではその疑問に回答を試みたい。
 それは「個」の価値観だと思う。「私」ではなく「個」。
 幕末期、人はそれぞれが帰属する藩にアイデンティティを求めていた。同時に、知識人たちはそれぞれが抱く新しい日本の姿を、自分と異なる意見の者を暴力で排除してでも実現することを強く望んでいた。
 大事なのは、どちらも近代的な意味での「公」ではないということである。近代的な意味の「公」とは、極論すれば国民国家の構成員として国家全体の利益を考えることである。これだけだとファッショのようだが、要は「みんな(国民国家においてはすなわち国家)のためになることならいくつかの欲望はがまんしよう」、ということである。
 藩は近代的意味の国家ではない。また自分と意見の異なる者でも同じ国民国家の国民であるならば、これを暴力で排除することは内戦に他ならない。幕末期の人は、大衆もインテリ層もまだ「公」を知らず、「個」の価値観に依拠していたと言える。
 これを『八重の桜』のエピソードにたとえるなら、次のように言えるだろう。幕末期、八重も容保も大山も、それぞれ藩に帰属し、またそれぞれの意見を通すためならば他者が傷つくことをいとわなかった。
 そして明治維新。日本は休息に近代化し、国民国家が生まれ、「公」の概念が生まれる。
 八重たちはまず藩から脱却することを求められ、さらに意見の違う者を尊重しあわねばならなくなり、苦しむことになる。互いに藩を単位に本気で戦争をしていたのだから、当然のことだ。
 自分の大切なものをいやと言うほどかけてまで守ろうとした「個」を「公」のために捨てること。これこそが「ならぬものはならぬ」ことだったのではないだろうか。
 そして劇中で筆者が一番感動したのは、八重がこれを克服したと思わせる最後のシーンであった。八重は銃を天に撃ち、憎むべきは自分でも、相手でもなく、惨状をつくりだした社会だと認めたのではないだろうか。
 さて。
 では、近代において「個」は本当に不要なのだろうか。
 劇中での徳富蘇峰との会話にある通り、国民国家の「公」は強い力を持つと同時に、人間個人の幸福や尊厳を損なわせる危険を孕んでいる。アジア・太平洋戦争の日本はこうした「公」の暴走により悲劇に見舞われることになった。
 結果、戦後はその反動で、「個」の重要性が説かれた。行き過ぎた「個」は各種暴力運動まで引き起こした。更に21世紀に入ると、地方にアイデンティティを持つ「個」が「公」を否定する傾向を持つようになった。地方分権や地域主権には、こうした一面があると言えよう。
 そして現在。改めて近代国民国家であることの重要性が再認識されつつある。「公」の復権である。
 我々は今度こそ、「公」を暴走させてはならない。これに抵抗する「個」の暴走にもまた然りである。

 近代以降、我々は「個」の功罪を目のあたりにしてきた。まさに歴史は繰り返す。近代国民国家というものを知った我々は、今後ずっと「公」と「個」のはざまで苦悩し続けるのだろう。
 今年の大河『八重の桜』は、会津という一地域に重点を置くことで、こうした「個」の美しさと危うさを描き出すことに成功したと思う。
 なんだかんだで、一年、楽しめました。面白かったです。あとやっぱりはるるんだなと思いました。
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